豊臣 完子/羽柴 完子(とよとみ の さだこ/はしば さだこ、文禄元年(1592年) - 万治元年(1658年))は、安土桃山時代・江戸時代の人物。豊臣(羽柴)秀勝の娘で、九条幸家の正室。従三位。
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豊臣(羽柴)秀吉の養子・羽柴秀勝(秀吉の姉日秀の次男三好小吉)、浅井長政と市の娘・江(崇源院)の間に生まれる。徳川家光には異父姉にあたる。
子は九条道房、二条康道、松殿道基(道昭)、栄厳、道子(本願寺光円室)、次女(本願寺光従室)、三女。
誕生前に文禄の役で父・秀勝が病死し、江は姉淀殿のもとで完子を産んだ。なお、初名は不明。
文禄4年(1595年)、江が徳川秀忠と再々婚したことで、伯母の淀殿に引き取られ養われる。淀殿は彼女を実の子として大切に養育したというが、おそらく相続の問題で『慶長日件録』では養子ではなく猶子と記録されている(猶子は相続の権利が発生しないので普通は名前のみの養子と捉えられる)。
慶長9年(1604年)6月、九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。この婚儀の直前に完子の乳母が亡くなっていることが記録されている。婚儀に際しては淀殿が万事整え京の人々を驚かせている。また義弟豊臣秀頼名義で豪華な九条新邸を造営している。婚儀の4年後、慶長13年(1608年)に秀頼の左大臣任官の動きが朝廷にあったことが明らかにされている。
慶長13年(1608年)12月26日、忠栄が関白に任官し、完子は従三位北政所となる。なお「完子(さだこ)」という諱はこのとき選定されたものと考えられる。
慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である徳川秀忠の養女となっている。徳川家に対しても忠栄は完子の母の江が徳川家に縁づいていることから、公家と武家の貴重な仲介役になった。
万治元年(1658年)、67歳で死去。
織田秀信に嫁いだともいわれているが、時期があわないため否定的な見方をされることが多い。
勝姫[1]と、松平忠直[2]との間の次女鶴姫[3]は家光[4]の養女として嫡男道房に嫁いでいる。
完子と幸家との間に何人かの子がおり、この子たちが豊臣家の血を引いたことになる。そのため、幸家の家系が豊臣宗家である大坂羽柴家滅亡後で豊臣嫡流の血筋に近いことになる。この子たちは浅野家に嫁いでおり、浅野家にも豊臣の血が流れている。
なお上記の理由により、昭和天皇は彼女の血を引いている。
豊臣完子─九条道房─九条待姫─九条輔実─九条幸教─二条宗基─二条治孝─九条尚忠─九条道孝─貞明皇后─昭和天皇